執筆: 小林 正敬(こばやし まさたか) — まさぼ内科・糖尿病クリニック飯田橋院 代表理事。糖尿病専門医・総合内科専門医。
100万円は、健康に化けるとは限らない。

朝、診察前のコーヒーを淹れながら、机の上に積んである午前枠のカルテに目を落とす。6月の中旬、梅雨の合間の小休止みたいな晴れ間の日。今日の予約欄に、ぼちぼち、こういう一行が目につくようになる。「先生、ボーナス入ったら、ちょっと相談したいことが」。
ボーナスシーズン、というのは、内科医にとっては、ある特定の種類の相談がいっせいに増える季節でもある。「マンジャロを試したい」「人間ドックのオプションを全部つけたい」「サプリの定期便を組みたい」── 普段は黙って HbA1c を下げる地味な作業をしている人たちが、急に「投資」の話を持ち出してくる時期、と言ってもいい。
そして、その背後には、たぶん、一つの大きな数字が控えている。
平均 104.6 万円、という、初めて見る数字
日本経済新聞の2026年夏ボーナス調査(中間集計、上場151社)では、平均支給額が前年比 4.07% 増の 104万6,931円。5年連続の増加、平均が初めて 100万円を超えた。製造業 105.7万、非製造業 102.2万、業種で多少差はあるが、いずれにせよ三桁。トップは 鹿島の 270万円、と書かれていて、僕は朝の珈琲を一口飲んでから二度読みした。
270万円。これは、僕の家賃のだいたい1年分である。
医学の話を書く前にちょっと注釈をつけておくと、これは「大手」の話で、中堅・中小はもう少し穏やかな現実が広がる。それでも、連合の2026春闘集計では、平均賃上げ率 5.26%(3年連続5%超え)、中小組合でも 5.05%、と、表面上は「賃上げ大成功」のスコアになっている。
ところが、ここに別の数字が重なる。
2026年の消費者物価上昇率は 2.7% 台 が見込まれ、帝国データバンクの調査では、6月単月で 食品値上げが 1,078品目(調味料 450品目、加工食品 304品目)、2026年通年では1万品目超えが見込まれる。電気料金も再改定、ガソリンは全国平均 169円台。「賃上げ 5%」と「実質賃金ほぼゼロ」が同じ画面に映っている、というのが2026年の梅雨明け前の景色である。
夏のボーナスの三桁は、嬉しい。嬉しいけれど、すでに「これ、何に使う?」と問われた瞬間に、家計簿の重力で、いろんなところに引っ張られていく。
そして、その引力の一つが、外来にも届く。
賞与というのは、支給日から3日で別の何かに翻訳される
ここで、戦後のサラリーマン小説のあたりからずっと観察されてきた、ひとつの地味な真実を書いておきたい。
ボーナスというお金は、人の生活に一瞬だけ余白を差し込んで、そのあとすぐに、別の何かに翻訳されて消えていく性質を持っている。 振込通知の数字を見たときの「おっ」という気分は、たいてい支給日の夜の酒で半分、翌週の住宅ローンの引き落としで残りの半分が、霧のように溶ける。これは令和の話ではない。戦後すぐの宣伝部の社員が、缶ビールと家族のため息と雀荘の煙の中ですり減らしていた頃から、たぶん構造は同じである。
医者の僕も例外ではないので、毎年6月と12月に「今度こそ、半分は貯める」と決意したことが、結果として一度も貯まらないまま、新しい本棚に消えている。これは医学の話ではない。経済の話、というより、人類の意識の話、と言ったほうが近い。
そして、外来で見ていると、その霧が、健康関連のメニューにも、ぼちぼち流れ込んでくる。
外来で増える「先生、これ試したいんですが」

具体的に何が増えるか、というと、たいていこのあたり。
- GLP-1(マンジャロ・オゼンピック等)の自費相談。「SNSで見て、痩せた人がいた」「友人が試している」「3か月だけでも」
- 人間ドックのオプション全部盛り。脳ドック、腫瘍マーカー、頸動脈エコー、全部つけたい、と
- サプリの定期便。プロテイン、マルチビタミン、亜鉛、コエンザイム、最近は「ミトコンドリア系」も多い
- 健康関連のガジェット。Apple Watch、Oura Ring、CGM(連続血糖測定)の自費レンタル、など
このリストを並べると、「健康への投資意欲が高まっている、いいことだ」と書きたくなる人もいると思う。実際、悪い兆候ではない。ただ、内分泌の医者として一つ、地味に書いておきたいことがある。
ボーナスは、健康に化けるとは限らない。
化けるかどうかは、「何にいくら使ったか」ではなく、「使ったあと、生活が変わったか」で決まる。サプリを月1万円取っても、毎晩2時にスマホを見ていたら、データは変わらない。CGM を1か月レンタルしても、ラーメンの量が変わらなければ、グラフがきれいに同じ形を描いて終わる。
医療の現場で、これを口にすると、患者さんが「先生、それ言わないで」みたいな顔をする。気持ちはわかる。僕も自分の枕元で同じ顔をしている。
GLP-1 自費の現実、というよくある相談
ここで、GLP-1(マンジャロ・オゼンピック等)の自費の話を、夏のボーナスシーズンに合わせて、一度きちんと書いておきたい。
日本国内で、これらは 「2型糖尿病の治療薬」としては保険適用 されている。ただ、痩せる目的、いわゆる「ダイエット目的」での処方は 保険適用外(自費) で、おおむね 月 5万〜10万円 が市場の相場、というところ(クリニックによって幅がある。ここから先の費用感は、公的統計ではなく、外来で見聞きする相場感として読んでほしい)。
自費で始めた場合、よくある経過を簡単に書くと、
- 初期: 食欲が落ちる、体重が動き始める、という人が多いが、減り方には かなり個人差 がある
- 副作用: 吐き気、便秘、下痢、消化器症状は、ふつうに出る。強い人はけっこう強く出る
- 中長期: 体重減少は頭打ちになりやすく、中止後に体重が戻ることも臨床研究で示されている(Wilding ら 2022年 STEP1 試験延長:68週で平均 17.3% 減少 → 中止 52週後で baseline -5.6% にまで戻る)
- そして、胆石、膵炎リスク、妊娠中・授乳中、持病や内服薬との相性 など、医師が事前に確認してから始める薬である
これを書くと、「じゃあ意味ないじゃないですか」と返ってくる。意味は、ある。糖尿病の治療として 必要な人にとっては、薬として、生活と並走させる前提で、しっかり意味がある。問題は、「3か月の自費でビフォーアフター写真を撮りたい」というモードで始めると、薬の意味と、生活の意味が、両方とも掴みきれない、というところにある。
僕の外来は糖尿病の保険診療が中心で、漢方内科も並走している。GLP-1 を含む自費の選択肢も置いてはあるが、それはケースバイケースの判断で、まずは血液検査と生活の整理から始めるほうが、ご本人の総コストは下がる、と思っている。270万円のボーナスがあっても、なくても、これは同じ。
桟橋の向こうで点滅している、緑のランプ、のような
健康投資にもう一つ、僕が外来でよく見る癖がある。
「あれを買えば」「これを試せば」「あの薬を打てば」── という、向こう岸の灯火に手を伸ばすような、健康の見方。 湾の対岸に毎晩ぼんやり灯っている緑のランプみたいなもので、毎日眺めているうちは何かの希望に見えるけれど、よく考えると、向こう岸に渡ったあと、そのランプが手元で光ってくれる保証は、どこにもない。光は、いつも一定の距離を保ったまま、年々こちらから遠ざかっていく。
健康についても、似たような構造のことが、まあまあの頻度で起きる。何かを買えば、何かを試せば、その向こう岸に届く、と僕らは信じている。ところが、たどり着く力は、たいてい灯火の側ではなく、毎晩の睡眠や、毎日の歩数や、毎月の血液検査の側にある。
ボーナス104.6万円は、その意味では、向こう岸の灯火ではなく、足元の道のほうに使う金 だと、僕は思っている。地味な答えで、すみません。
結局、地味な5つ、という地味な結論

医学の意地悪なところは、たいていの場合、最善の処方箋がいちばん地味なところにある、ということ。糖尿病で言えば「食事と運動」、ボーナスで言えば「日々の地味な投資」。本人が一番地味だと感じている選択肢が、たいていいちばん効く。当たり前すぎて、なかなか実行に至らない。
それでも、夏のボーナスが入った日の自分にプレゼントしたい、地味な5つを書いておく。
- 健康診断の自費オプション。脳MRI・心臓CT・大腸内視鏡など、年齢・家族歴・気になる症状に応じて、必要な検査を選ぶ。3年に1回くらいのペースが目安。これは「向こう岸ではなく道」のほうの投資
- 質のいい寝具。マットレスと枕の組み合わせを変えるだけで、睡眠時間が同じでも翌朝のキレが違う、というのは、けっこう報告がある
- CGM(連続血糖測定)2週間レンタル。自費でも1回 1〜2万円台。糖尿病でない方でも自分の血糖変動が「見える」と、食事の選択が変わるきっかけになる。ただし数字に振り回されすぎない使い方が前提
- 漢方の初回相談。補中益気湯、六君子湯、加味逍遥散、などなど。証に合えば、半年〜1年で体感が変わる方は珍しくない
- 本を10冊買う。これは内科とは無関係に見えるが、夜中のスマホ時間が読書時間に置き換わると、寝つきがずいぶん変わる、という方をぼちぼち見ている
これだけ。地味な5つで、自分でも書きながら「ボーナスの使い道としてはやや堅実すぎる」と苦笑する。けれど、地味な答えしか地味に効かない、というのは、賞与の霧と向こう岸の灯火、ふたつ並べてみると、なんとなく説得力が湧いてくる、と思いません?
そんなわけで、僕は今夏、自分のボーナスを、たぶん、半分は本に変える。
たぶん。

院長後記
書きながら気づいたんですが、僕の本棚、奥のほうに 3 年積んだままの本が、たぶん 20 冊くらいあります。今夏のボーナスは「新しい本を買う前に、積んだ本を読む」と先に宣言しておきたいのですが、これを書いた来年の自分は、たぶんまた新しい本を買っていると思います。賞与の霧と、向こう岸の灯火は、僕の本棚にも、ちゃんと立ち昇っている、ということでもあります。