執筆: 小林 正敬(こばやし まさたか) — まさぼ内科・糖尿病クリニック飯田橋院 代表理事。糖尿病専門医・総合内科専門医。
A判定ではないが、病名でもない。── そのあいだに、僕らはいちばん弱い。

朝、診察前のコーヒーを淹れながら、机の右側を見ると、未開封の白い封筒が3通、地味に積まれている。1通は会社の健診結果、もう1通は人間ドックの追加報告、3通目は「ご精査をお勧めします」の二次案内、たぶん。3つとも自分の身体の話なのに、開けるのに必要なエネルギーが、なぜか毎週、足りない。
夏至の日、というのは、内科医にとっては、こういう「未開封の封筒」と、それを開けに来る人と、開けないまま3年経った結果の数字が、いっせいに集まる季節でもある。一年でいちばん昼が長い、というのに、健診結果を開ける時間は、なぜか、年でいちばん短い。
そんなことを思いながら、午前の外来で、3人連続で「先生、これ去年も同じこと書いてあったんですけど」と健診表を差し出された。3人とも、年齢・職種・体型ばらばら。共通点はひとつだけ、封筒を3年積んでいた、ということ。
今日はその話を書く。健診表、というのは、身体が僕らに貼った付箋である、という話。
2026年4月から、健診の中身がこっそり変わった
まず、地味だけれど押さえておきたい時事を一つ。
2026年4月から、協会けんぽの生活習慣病予防健診が大きく改正された。要点をざっくり書くと、
- 人間ドック健診の補助新設: 最高25,000円、35〜74歳の被保険者対象、検査項目がいちばん多いコース
- 若年層へ対象拡大: 20歳・25歳・30歳が予防健診の対象に追加(胃がん・大腸がんは除外)
- 女性向けの追加: 喀痰細胞診、骨粗鬆症検診
- 名称統合: 「一般健診+付加健診」が「節目健診」へ整理
これは社労士界隈とは別の角度でとても大きな話で、つまり、「必須」と「オプション」の境界が、健保サイドの実装上もはっきり分けられた、ということ。何を全員に必ず行うか、何を選んだ人だけが追加するか、というルールが、制度の文章として書かれた。これは健康経営という言葉が雑に流通している2026年の景色に対する、健保サイドの、ややシラフな整理である。
そして、これは、患者さん側の意識にも、ぼちぼち影響が出てくる、と僕は外来で見ている。「先生、人間ドック補助が出るらしいんで、今年は脳MRIまで入れたいんですけど、どれを足せばいいですか」── そういう相談が、6月に入ってから、毎週1〜2件は来るようになった。
ところが、ここに、もう一つ地味な数字が重なる。
受診率 77.3%、というあまり知られていない真実
厚生労働省の国民生活基礎調査によると、過去1年間の健診や人間ドックを受けた人は、20歳以上の全体で 64.3%、仕事を持っている層では 69.4%、その中で「一般常雇者」(正社員的な働き方)は 77.3% と、全カテゴリで最も高い。
つまり、正社員ホワイトカラーのおよそ8割は、年に1回、身体から書類を受け取っている。受け取っている、という事実は、確かに進歩である。問題は、書類を受け取ったあと、開けて、読んで、必要なら次の予約まで取る人は、たぶん8割よりだいぶ少ない、ということ。
これは僕の机を見ても、よくわかる。受け取ることと、開けることと、行動することは、別の作業である。3つとも医者の僕がサボっているのだから、診察室の向こう側にお願いするのも、ちょっと気が引ける。
A判定ではないが、病名でもない、というグレーゾーン

ここで、内分泌の医者として、ひとつ地味に書いておきたいデータがある。
健診表のいちばん危険な領域は、「異常」でも「正常」でもない、その中間である。
- HbA1c 5.6〜6.4%: 糖尿病型ではないが、正常域とも言い切りにくい。糖尿病予備群 として、生活を一度見直したい領域
- ALT 30〜50 U/L: 肝障害の閾値を少し越えるあたり、脂肪肝の入り口を疑う
- 空腹時血糖 100〜125 mg/dL: 正常高値、または境界型
- eGFR 60〜89 mL/分/1.73㎡: 年齢や尿所見と合わせて見る領域。単独で病気と決めつける数字ではないが、推移は見ておきたい
- 尿酸 7.0〜8.0 mg/dL: 高尿酸血症として扱われることが多い領域だが、症状や合併リスクと合わせて方針を考える
なお、実際の判定は 年齢・既往歴・尿所見・服薬・施設ごとの基準 で変わるので、ここでは「放置しない目安」として読んでほしい。
これらは、健診表では 「B判定」や「要経過観察」 で印刷されて、多くの方が 「異常じゃないし」 と判断保留にする。判定保留は、本人にとっても、医者にとっても、一見いちばん穏やかな選択肢である。
ところが、糖尿病外来でデータを長年眺めていると、ここから5年・10年で「正式に病気」になっていく方の数字は、たいてい、この判定保留のラインを行ったり来たりしていた頃の付箋から、地味に動いている。それも、本人が驚くほど、地味に。派手な悪化はあまりなくて、毎年少しずつ HbA1c が上がるような、線形の変化として見えることが多い、というのが、僕の外来の体感である。
派手じゃない変化は、本人が気づかない。気づかないから、放置される。放置されると、ある年に、突然、「先生、A判定じゃなくなりました」と封筒を持って来られる。「突然」というのは、たいてい、本人の脳内での「突然」であって、データの上ではずっと地味に動いていた、というのが正確なところ、なのだ。
乾いた書類が、判子なしで、身体から届く
ところで、僕の机の上の3通の封筒について、もう少しだけ書きたい。
健診表というのは、よく考えると、身体という役所が、毎年自動的に発行してくる、淡々とした書類である。誰かが手で書いてくれたわけでもなく、特別に説明をしてくれるわけでもない。ただ、紙の上に数字とアルファベットが並んでいて、それを読むかどうかの判断は、受取人に丸投げされている。
そして、これを「あとで読む」と決めた瞬間に、僕らの中に、たぶん、ある種の小さい不安が、薄く生まれる。判子のない通知のような、出所はわかっているけれど中身がわからない封筒のような、なんとなく後ろめたいけれど明確な悪意もない、淡い不安。それを開ける勇気と、それを先延ばしする勇気の、どちらが大きいのか、というのは、たぶん2026年6月の都市生活者の、ささやかなテーマである。
ここで地味に怖いのは、先延ばし、という作業自体がエネルギーを使う、ということ。封筒を見るたびに「あ、あとで」と思うたびに、その「あとで」の貯金が、僕らの中で利息を生んでいく。1か月で利息0.05本、3か月で0.15本、3年で1.8本くらいの「未読の利息」が貯まる、と言ってもいい。判断を保留する、というのは、判断する、よりエネルギーコストが高い、というのが、僕の机の経験論である。
「まだ間に合う数値」を、糖尿病専門医の側から見ると

地味で怖い話の次に、地味で希望のある話を書いておきたい。
糖尿病専門医の現場で、いちばん「やりがいがある」というか、いちばん「人生が動く」のは、実は 正式に病気になる前の、その手前のグレーゾーンである。HbA1c 5.8〜6.2 あたりの層。境界型、と呼ばれる場所。
ここで「ちゃんと数字を開いて、毎月の睡眠を確保して、夜の炭水化物を1割落として、週2回の歩行を習慣にする」と、HbA1c が 6.5 を越えずに、5%台後半に戻るケースは、外来でも珍しくない。これは派手な治療をしたわけでもなく、薬を増やしたわけでもなく、「身体からの付箋を、ちゃんと読んだ」だけ、なのだ。
逆に言うと、糖尿病が正式に確定するラインを越えてからは、戻すコストが急に上がる。境界型のあいだは、「身体の付箋を読むかどうか」のレベルで人生が分岐しているのに、確定後は、「薬と通院と検査のセットを生活の一部として運用するかどうか」のレベルに変わる。前者は10分の意思、後者は10年の運用、と言ってもよい。
自費か保険か、という、今回もよく聞かれる相談
健診で「B判定」が並んだ後、外来でよく聞かれるのは「先生、人間ドックでもっと細かく見たほうがいいですか」「自費で CT 撮ったほうがいいですか」という相談である。
僕の答えは、たいていこう。「まずは保険でできる血液検査と問診を整理してから、足りない部分を、年齢・家族歴・気になる症状で選ぶ」。保険診療で見える数字は、思っているよりずっと多くて、足りない部分が見えてきてから自費を足す、という順序にすると、総コストはずいぶん下がる。
漢方を併用する場合もある。胃腸の弱りや疲れやすさには六君子湯や補中益気湯、自律神経の揺らぎには加味逍遥散や柴胡加竜骨牡蛎湯、というような選択肢が、保険診療の枠の中で並走できる。当院は糖尿病の保険診療を中心に、漢方内科も並走している糖尿病クリニックなので、健診で引っかかった数字と、なんとなくの倦怠と、夜の眠りの浅さを、別々の科に分けずに、ひとつの外来で扱える、というのが構造的な強み、というのが、いつもの正直なところ。
GLP-1 を含む自費の選択肢も置いてはあるが、まずは身体の付箋を全部読むほうが、結果として本人の総コストは下がる、と僕は思っている。これは何度書いても変わらないので、しつこく書く。
地味な5つ、という、いつもの地味な結論
医学の意地悪なところは、たいていの場合、最善の処方箋がいちばん地味なところにある、ということ。健診で言えば、結局のところ、
- 封筒を、その日のうちに開ける。「あとで」を1日延ばすごとに、開ける重さが指数関数的に増える、というのは、ささやかな経験則
- B判定の項目を、メモアプリに転記する。HbA1c、ALT、空腹時血糖、eGFR、尿酸、この5つだけでもいい。書く、という行為が、未読の利息をリセットする
- 再検査が出たら、その場で予約まで取る。予約画面を閉じる前に、6月のカレンダーに1枠だけ入れる
- 必要なら主治医に話す。健診結果のPDFをそのまま持って行って大丈夫。「経過観察」と書いてあっても、相談していい
- HbA1c 5.8〜6.4 の領域に入った人は、毎月の睡眠と夜の炭水化物の話を、一度だけきちんとする。これは効くし、続けやすい
これだけ。地味な5つで、自分でも書きながら「医者がこれを5回書く外来勤務、今月何回目だろう」と数えそうになる。けれど、地味な答えしか地味に効かない、というのは、夏至の日の昼の長さと同じで、書いた瞬間には大したことないのに、放っておくと、ぼんやり長く続く、という性質のものではないか、と最近思っている。
そんなわけで、僕は今夜、たぶん0時前に、机の右側の3通の封筒のうちの1通くらいは、開ける。
たぶん。

院長後記
書きながら気づいたんですが、僕の机の右側の3通の封筒、いちばん下のやつは、たぶん去年の健診結果です。一年積んでた本人が、今日のコラムで「その日のうちに開けろ」と書いている、という構造に、自分でも少し笑ってしまいました。中学生の作文かよ、と我ながら思いますが、こうやって書いておけば、来週の自分が読み返して、苦笑しながら、いちばん下の封筒くらいは開けるかもしれません。書いておくのは、たぶん、そういう用途のものだったりもするのです。