第9回|「飲むGLP-1」が現実になった夏、僕らの夕食は現実のままである。

アイキャッチ:薬局の棚に並ぶ薬と、それを見上げる白衣の薬剤師

執筆: 小林 正敬(こばやし まさたか) — まさぼ内科・糖尿病クリニック飯田橋院 代表理事。糖尿病専門医・総合内科専門医。


薬の進歩は、階段を二段飛ばしで駆け上がってくる。生活のほうは、今日も一段ずつしか上がれない。

アイキャッチ:薬局の棚に並ぶ薬と、それを見上げる白衣の薬剤師

7月である。ワールドカップで日本代表を追いかけた数週間が、先に終わった。外来の待合室に、ようやくいつもの顔色が戻ってきた。日本代表が先制して、ひっくり返された、あの朝の待合室は、今年いちばん静かだった。負けた話は、誰もしない。それでも、勝ち残った国の試合を、みんなまだ観ている。決勝は来週だ。ああいう、負けたのに続いていく静けさは、嫌いじゃない。

一方で、スーパーの棚は騒がしい。この7月は食品2,566品目が値上げで、パンも即席麺も一斉に上がった。冷蔵庫で夏の麦茶をがぶ飲みする家計にも、じわじわ効いてくる。財布と身体の両方が試される夏、ということになる。

そんな7月の診察室で、この春から明らかに増えた質問がある。

「先生、飲むGLP-1が出たって、本当ですか」

本当です。今日はその話を書く。ただし、最後まで読むと、話は結局、今夜の夕食に戻ってくる。先に言っておきます。

新薬のニュースは、診察室のドアより先に、患者さんのスマホに届く

昔は、新しい薬の話は医者が患者さんに伝えるものだった。いまは逆で、患者さんのポケットの中に、承認のニュースが医者の解説より先に着弾する。新薬の情報は、診察室のドアをノックする前に、待合室のスマホの画面で光っている。

だから外来で「飲むやつ、出たんですよね」と聞かれたとき、僕の仕事は「出ました」と言うことではなくて、その一報のまわりに散らばっている、期待と誤解を、ひとつずつ仕分けることになる。今日のコラムは、その仕分け作業の、いわば書面版である。

2026年4月1日に、アメリカで起きたこと

まず事実から。今年の4月1日、米国のFDA(食品医薬品局)が、オルフォルグリプロンという経口GLP-1受容体作動薬を承認した。商品名はFoundayo(ファウンダヨ)。対象は、肥満症のある成人と、過体重で体重に関連する持病のある成人。エイプリルフールに流れてきたニュースだったので、僕も一度、日付を確認した。本当だった。

1日1回、錠剤を飲む。しかも、時間を問わず、食事や水の制限もなく飲める。「注射ではないGLP-1」というだけでなく、「暮らしの中に置きやすいGLP-1」として設計されている。ここが、あとで書くように、地味に大きい。

もうひとつ、日本人として書き添えたくなる事実がある。この分子、もともとは日本の中外製薬が創り出したものだ。創製は日本、開発と販売は米国のイーライリリー社。日本のラボで生まれた分子が、太平洋の向こうの薬局の棚に、先に並んだことになる。誇らしさが半分、「先方の棚が先か」という妙な感慨が半分。とはいえ創薬の世界では珍しくない順番で、順番より、生まれたこと自体がすごい。

「経口なら、もうあるじゃないか」という正しいツッコミ

ここで、勉強熱心な方からは、正しいツッコミが入る。「飲むGLP-1なら、リベルサスがもうありますよね」

その通り。経口セマグルチド(リベルサス)は、すでに日本でも使われている。ただ、あの薬には、飲み方に厳格な作法がある。起き抜けの空腹の状態で、コップ半分ほどの少ない水で飲み、そのあと30分は、飲食も他の薬も禁止。 ペプチドという壊れやすい分子を、胃酸の海を泳がせて吸収させるための、ぎりぎりの工夫だ。毎朝この30分を、几帳面に守り続けられる人は、実はそんなに多くない。外来でも「朝がバタバタで、つい」という告白を、何度も聞いてきた。

オルフォルグリプロンは、ここが違う。ペプチドではなく低分子という、壊れにくい設計の分子なので、胃酸を気にしなくていい。だから、いつ飲んでもいい。水の量も、食事のタイミングも、問わない。

「30分ルールがない」。字面にすると、それだけのことだ。けれど、慢性疾患の治療で本当に効くのは、劇的な何かではなく、続けられる仕組みのほうである。続かない名薬より、続く並薬、というのは外来の実感で、その意味でこの「制限なし」は、派手な数字よりも価値があるかもしれない、と僕は思っている。

「注射は、ちょっと」の向こう側

もうひとつ、錠剤であることの意味を、外来の景色から書いておきたい。

診察室には、「注射」という言葉を口にした瞬間に、目線がすっと下がる方がいる。針が痛いからではない。いまのGLP-1の注射針は驚くほど細くて、実際、ほとんど痛くない。それでも下がる。注射への抵抗感というのは、理屈ではなく、皮膚の記憶なのだ。 子どもの頃の予防接種の列、消毒綿の冷たさ、腕をつかまれた感触。ああいうものは、大人になっても、皮膚のどこかに畳まれたまま残っている。

「毎週打つくらいなら、今のままでいいです」──そう言って、治療の入り口で立ち止まったままの方を、僕は何人も知っている。錠剤という選択肢は、そういう方たちにとって、性能の話ではなく、入り口の話になる。薬の形がひとつ変わるだけで、治療をあきらめていた人が、もう一度、地図を開くことがある。飲むGLP-1の本当の価値は、数字の優劣よりも、むしろこちら側にあるんじゃないか、と僕は半分本気で思っている。

数字を、留保つきで置いておく

スマホでニュースを見ながら朝食のテーブルにつく働き盛りの男性

効き目の数字も、置いておく。ただし、数字は嘘をつかないが、事情も説明してくれないので、留保つきで。

2型糖尿病の方を対象にしたACHIEVE-3試験では、オルフォルグリプロンはHbA1cをおよそ1.9〜2.2%下げた。既存の経口セマグルチドが同じ試験で1.1〜1.4%だったので、この試験の範囲では直接比較で上回った、という結果になる。体重も、36mg群で約9%減った。また、糖尿病のない肥満症の方を対象にした試験では、最高用量で約11〜12%の体重減少が報告されている。

一方で、注射のチルゼパチド(マンジャロやゼップバウンドの成分)は、試験によっては20%前後の減量を叩き出す。つまり「飲む」が「打つ」を性能で追い越したわけでは、まだない。吐き気などの消化器症状も、GLP-1一族の例に漏れず、ちゃんとある。万能の錠剤が出たのではなく、選択肢の地図に、新しい道が一本増えた。それが、数字を眺めたうえでの、僕の位置づけである。

で、日本には、いつ来るのか

いちばん聞かれる質問がこれで、いちばん答えにくい質問もこれだ。

イーライリリー社は、2型糖尿病の治療薬としての承認申請を、2026年に世界各国で行う予定と発表している。日本での正確な時期は、まだ公表されていない。そのうえで、あくまで僕の見立てを言えば、承認されて日本の診察室に届くのは、早くても2026年の暮れ以降、現実的には2027年ごろになるだろう、と思っている。ここは事実ではなく予想として読んでほしい(細かい数字は別に一本まとめたものがあるので、深追いしたい方はそちらに譲ります)。

ここで、ひとつだけ強い言葉を使わせてもらう。承認前の薬を個人輸入で手に入れようとするのは、やめたほうがいい。 世界的に品薄と偽造品が問題になっている領域で、箱の中身が本物である保証は、どこにもない。効かないだけなら、まだいい。何が入っているか分からないものを、毎日飲むことになりかねない。

「悠々として急げ」という、作家の開高健にちなむ言葉として知られる一句がある。急ぐ気持ちは正しい。ただ、急ぎ方には品がいる。承認を待つ数ヶ月は、体重や血糖にとって空白の時間ではなくて、薬が来たときに、いちばん効く身体を準備しておく時間でもある。食事と歩き方が整っている人ほど、薬はよく効く。これは、どのGLP-1でも変わらなかった。

自費か保険か、という、いつもの短い話

当院は、糖尿病の保険診療を土台にしている糖尿病クリニックで、その延長で、注射のGLP-1・GIP薬を自由診療でも扱っている。だから「飲む薬が来たら、注射は終わりですか」とも聞かれるのだが、答えは、たぶん逆に近い。効き方の強さも、向き不向きも、注射と錠剤では別物で、新しい選択肢が増えるほど、「誰に、何を、どの順番で」という専門医の仕分けの仕事は、むしろ増える。 道が一本しかない時代は、地図がいらなかった。道が増えたから、地図がいる。──薬棚の話はここまでにして、台所に戻ります。

薬が進んでも、夕食は進まない

夏の夕食の食卓。冷奴と枝豆と麦茶を囲む家族

どれだけ薬が進歩しても、変わらない事実がひとつある。夕食は、今夜もやってくる、ということだ。

GLP-1という薬の一族は、乱暴に言えば、食欲のボリュームつまみを絞る薬である。つまみを絞ることは、薬にできる。けれど、絞られた音量の中で何を流すかは、相変わらず本人の選曲なのだ。冷奴に枝豆に麦茶の夜もあれば、揚げ物の誘惑に負ける夜もある。値上げの夏、財布と相談しながら食卓を組み立てる作業は、どんな新薬が承認されても、誰も代わってくれない。

新薬は、遠くにあった景色を、ある朝いきなり手元まで近づけてくれる。それでも、今夜の白米をひと口減らすかどうかは、相変わらず自分の箸が決める。薬は食卓まで来てくれるが、箸を置くタイミングまでは、決めてくれない。 薬は、よくできた手すりだ。いい手すりが増えるのは、本当にありがたい。それでも、手すりだけでは、一段も上がれない。

飲むGLP-1の続報は、大きな動きがあり次第、またこの場所に書きます。それまで僕らは、一段ずつ。

4コマ漫画:飲むGLP-1出たんですか→日本はまだ申請中です→じゃあそれまでどうすれば→今夜の白米をひと口減らしましょう、で患者がっくり

院長後記

原稿を書き終えて、ふと、自分が医者になった年のことを思い出しました。当時、GLP-1はまだ注射一択で、しかも毎日打つ薬でした。それが週1回になり、配合薬になり、とうとう錠剤が食卓の水で飲める時代が、すぐそこまで来ている。医学の階段の速さには、ときどき、めまいがします。それでも外来で僕が言うことは、研修医の頃からほとんど変わっていません。よく歩いて、よく寝て、野菜から食べましょう。進歩の速さに、僕の話す中身は、まるで追いついていない。──それでいい、と最近は思うのです。階段というのは、一段ずつのほうが、転ばない。二段飛ばしは、薬のほうに任せておきます。

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この記事を書いた人

まさぼ内科・糖尿病クリニック飯田橋院 代表理事 / 院長。日本糖尿病学会 糖尿病専門医/日本糖尿病協会 糖尿病認定医/日本内科学会 認定内科医・総合内科専門医/日本内科学会 認定医制度審議会 病歴要約評価委員/日本老年医学会 老年科専門医・指導医/日本抗加齢医学会 抗加齢専門医/日本消化器内視鏡学会 消化器内視鏡専門医/ICD制度協議会 インフェクションコントロールドクター。医籍登録番号 第486214号。国立国際医療研究センター国府台病院で内科研修を始めた後、糖尿病内科の道に進み、現在は最新の薬物療法(GLP-1作動薬・チルゼパチド等)と、栄養・運動・漢方を組み合わせた包括的な糖尿病・代謝診療を実践しています。

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