第20回|五キロの値札が下がった秋、茶わんを数える手は春のままでいい。
執筆: 小林 正敬(こばやし まさたか) — まさぼ内科・糖尿病クリニック飯田橋院 代表理事。糖尿病専門医・総合内科専門医。
高かった春、米は一合ずつ数えて炊かれた。安くなった秋、数えられなくなった米は、茶わんの上でそのまま山になる。

10月2日、農水省が、毎日食べる米の店頭価格を週ごとに発表した。全国のスーパーで9月27日までの1週間に売れた米の平均が、5キロ2,926円。前の週より8円下がって、これで7週連続の値下がりだという。
今年の年明けの週には、同じ調査の平均が4,416円に達していた。あの冬、玄関先で袋を持ち上げた手の重さを、まだ覚えている人は多いだろう。同じ調査の平均で比べると、いまは約1,500円安い。値札というやつは絶えず流れて、しかも去年の値札にあらず、と言いたくなるほど、この二年の米は、高いほうにも安いほうにも大きく振れた。
春の外来では、「お米が高いので、ごはんを減らして、パンと麺にしました」という話を毎週のように聞いた。夕食の茶わんが小さくなった家も、朝がトーストに変わった家もあった。このごろは、診察の世間話の頭に「新米、安くなりましたよね」が置かれることが増えた気がする。
──と、ここまで値札の話しかしていない。医者の原稿なのに、まだ茶わんの中身に一度も触れていなかった。今日は、値札が下がったあとの、茶わんのほうの話をする。
米が去年より安い——5キロ2,926円まで下がった秋の棚
農水省は、全国約1,000店舗のスーパーのPOSデータから、米の平均販売価格を毎週まとめている。9月21日から27日の平均が、5キロ税込み2,926円。前の週より8円安く、去年の同じ週の4,211円より1,285円、30.5%安い。新米も古米もブレンド米も混ざった平均なので、新米だけの値段ではない。年明けの4,416円からは、約1,500円の下がり幅になる。

棚の側では、めずらしい話も出ていた。8月の地元紙は、静岡のスーパーで、去年の古米が2,900円を切る値段で並ぶいっぽう、今年の新米は2,000円台で入ってくる見込みだと、店の社長の話を伝えている。ふつうなら新しいほうが高いはずの値札が、この秋は逆さまになるかもしれない、という見立てだった。去年産は値の張る時期に仕入れたので値下げしにくく、今年産は豊作で米が余りそうだから、と記事は説明している。
余っている、の中身はこうだ。農水省の統計で、8月末の民間在庫は150万玄米トン。前の年の同じ月より66万トン多いので、前年は84万トンほどだったことになり、一年で倍近くに膨らんだ計算だ。米が足りなくなった年に、国は備蓄を放出した。そのぶんを、供給が足りていると見た国が、いま買い戻している。2025年産米21万トンの買い戻しは、9月18日に全量が成約した。放出した備蓄米の買い戻しは、現行の備蓄方式が始まった2011年度以降で初めてだと報じられている。
田んぼの側にも数字がある。7月22日の報道では、JAが集荷のときに農家へ前払いする概算金が、高知のコシヒカリで玄米60キロ1万4千円、去年より約4割安い。宮崎でも、最も早い出荷区分で1万8千円ほどと、去年の3万2千円ほどから約4割下がった。同じ60キロ一袋で、1万4千円ほどの差になる。買う側には軽くなった支払いが、作った側には、減った受け取りとして届く。どちらの顔で眺めるかは、人それぞれでいいだろう。
いつまで安いのか、とも聞かれる。これは僕には言い切れない。値札は、天候と政策と、遠くの田んぼの事情で動くものなので、医者が占える領分ではない。言えるのは、値札が来月どちらへ動いても、台所の中で持てるものは変わらない、ということのほうだ。
米が高かった春、台所では何が起きていたのか
2024年の夏、一部のスーパーで米が品薄になり、「令和の米騒動」と呼ばれた。あのころから、米は、買う側にとって「いくらで買えるか」を毎週確かめる食べ物になった。第1回に、健診で軽い高血糖を指摘された方が「お米も高いし、糖質制限、ちょうどいいですよね」と言う場面を書いた(第1回・糖尿病の食事管理とダイエット、似てるようで別ゲーでした。)。あの春から半年。値札のほうが、先に戻りかけている。
米穀安定供給確保支援機構の消費動向調査(モニター世帯からの推計)では、2025年度の1人あたりの精米消費量は1か月4,435グラム。前の年度から6.1%減って、7年ぶりの低い水準になった。家庭の中だけで見ると2,929グラムで、8.2%の減り。卸売り大手は、買い控えが起きて麺類やパンを取り入れる家庭が増えたと分析している、と報じられた。
ここで茶わんに直してみる。調査の換算は、普通サイズの茶わん1杯を精米65グラムとする。前の年度の4,722グラムとの差は287グラムで、4.4杯分。1か月で、4杯ちょっと。1日にならせば茶わんの7分の1ほど、ごはんにして20グラムくらいだ。
家庭で食べた分だけなら、ひと月2,929グラム。精米65グラムを一杯とすれば45杯ほどで、前の年より8.2%少ない。減ったぶんは、やはり月に4杯ほどになる。冷凍庫のごはんの包みが四つ減った、と考えると、ようやく目に見える。朝をトーストに替えた家と、毎食ひと口ずつ浅く盛るようになった家では、同じ4杯でも、空いた場所が違う。
在庫の山が全部この「ひと口」のせいだと言うつもりはない。作る量も、放出された備蓄米も、話に絡んでいる。ただ、食べる量というものは、本人が気づかないほど小さな単位で動く、というところだけは持ち帰りたい。食べる量と使う量の小さな差が長く続けば、体重に響くこともある。
米が安くなったら、パンと麺は台所を出ていくのか
値札は、週に8円ずつでも動く。食卓は、そうはいかない。
値上げの夏に、値札のほうが献立より先に書き換わる、と書いた(第14回・値上げは、財布より先に、皿の色を薄くする。)。では値下がりの秋に、値札は献立を書き戻すのだろうか。書き戻すのは全部ではなく、一部だけ、というのが僕の見立てだ。消しゴムを持つ手は、鉛筆を持つ手より、たいてい力が弱い。
春に台所へ入ったパスタの日や、朝のトーストは、米が安くなったからといって、値札と同じ速さで出ていってはくれない。これは統計ではなく、外来の雑談から受けている印象だ。夕食にパスタの日をつくった家が、米が安くなったあとも、その日を残している。そういう話を聞くことが、わりとある。
いっぽうで、戻ってくるものもある。炊飯器の出番だ。値段が下がったとたんに「新米をたくさん炊こう」と思うのは、人情として自然で、新米はうまいのだから、俺にも気持ちはわかる。
問題は、戻り方のほうにある。パンと麺が居座ったまま、ごはんも戻ってくれば、主食が二枚重なる日が出る。春に減らしていた量が、秋に黙って元へ戻るだけなら、まだいい。春より増えて戻ることも、ないとは言えない。値札は、勝手に戻ってくれる。茶わんの中身は、自分で決めないと、戻り先が決まらない。値札の計算には、たいてい、茶わんのぶんの量が書き忘れられている。
高かった春、僕らは米を一合ずつ数えていた
米が高かった春は、こんな話をよく聞いた。米専用の計量カップを引っぱり出して、すりきり一杯を量る。炊飯器に水を入れる前に、合数を数える。余ったごはんは、一杯ぶんずつラップに包んで冷凍庫へ。値札が、人に量を数えさせていた。「量るといい」という知識を、実際に量る手に変えるのは、診察室でいちばん骨の折れる仕事のひとつなのに、あの春は値札がその骨折りを肩代わりしていた。計量カップ、合数、ラップの包み。三つ並べると立派な家政学だが、やっていることは、茶わんの中身を知る、というひとつのことだ。
先週のビールの回で、人は説教では動かないけれど値札では動く、と書いた(第19回・ビールの棚から、値段の三段構えが消えた週に。)。米の春は、その値札が、ごはんの量を数えさせたという、めずらしい季節だった。診察室で僕が何年言っても数えてもらえなかった茶わんの量を、あの春の値札は、数週間で数えさせてしまった(涙)。
5キロの袋を、一杯ぶんずつに分けてみる。1合150グラムで割ると約33合。茶わん1杯を精米65グラムとする先ほどの換算なら、約77杯ぶんになる。年明けの4,416円なら、茶わん1杯ぶんの米が約57円。いまの2,926円なら約38円。どちらも僕の暗算で、米そのものの代金の話だけれど、1杯あたりの差は20円ほどだ。
20円では、人は茶わんの量を決め直さない。決め直させていたのは、袋ごとの1,500円のほうだった。
値札が下がると、数える理由もいっしょに消えていく。炊飯器は、値札を見ない。釜に入れた米の量だけを、黙って炊く。数えるのは、いつも釜の外にいる人間の側だ。
ごはんを1日3回食べる人は、1年に千回あまり、茶わんを手に持つ。一回ぶんの差は誤差でも、千回ぶんの差は、別の一年になる。その中身を知らないまま暮らすのと、一度だけ、すりきり一杯と秤の数字で知っておくのとでは、あとの景色が違ってくる。数えるという地味な習慣は、効いても手柄にならない。だから、値札が下がると、まっ先に後回しにされる。
続ける、という地味な動詞ほど、医学で強い動詞はない。いま手放したくないのは、安い米ではなく、春に身につけた「数える手」のほうだ。
ごはんは1食何グラムまでか、という相談について
外来でも「ごはんは、1回にどのくらいまでいいですか」とよく聞かれる。答えは人によって違う、というのが先に来る。そのうえで、物差しの置き場所だけ書いておく。
厚生労働省の「日本人の食事摂取基準(2025年版)」は、炭水化物をエネルギーの50〜65%の範囲で摂ることを目標量に置いている(範囲は「おおむねの値」という注記つき)。一日の食事を、エネルギーの等しい十皿に分けると、炭水化物の持ち分は五皿から六皿半。国の物差しは炭水化物全体の割合で、米だけを名指ししてはいない。米を悪者にする数字ではなく、米でもパンでも麺でも、合計の量を見る数字だ。ただ、この割合から、目の前の茶わん1杯の量までは、一息には決まらない。
茶わん1杯は、精米65グラムで、炊き上がりにすると140〜150グラムほど。1合(精米150グラム)を炊くと、ごはんは330〜340グラムになる(水加減で多少変わる)。中茶わんで2杯強だ。「1食1合」と聞くと控えめに聞こえるが、茶わんで数えると、2杯強を一度に食べている計算になる。
健診で初めて血糖を指摘された人なら、まず、いつもの一杯が何グラムかを知る話になる。治療中なら、その一杯には体格も活動量も薬も関わっていて、量を変える相談は、いつもの主治医や管理栄養士との話の続きになる。ここの換算だけで、食事も薬も変えないでほしい。インスリンや一部の薬では、食事の量を急に減らすと低血糖を起こすことがある。
秋になると、新米をめぐる健康の見出しが、脅す側にも持ち上げる側にも並ぶ。新米だから血糖値が、という話も耳にする。新米と古米の違いが、人の食後血糖にどれほど響くのか。僕の探した範囲では、はっきり答えられる資料に当たれなかった。貯蔵した米の消化性や推定GIを試験管の中で調べた研究はあるけれど、それをそのまま人の食後血糖に置き換えることはできない。確かに言えるのは、新米がうまくて食べるごはんが増えれば、摂る糖質も増える、という算数だ。
量を変えた翌朝、体重計に乗ると、つい返事を急ぎたくなる。一日の増減は水分や塩分でも動くので、同じ時刻、同じ条件で量って、数週間の傾向を見る。昨日の一杯の答えを、今朝だけで出さなくていい。治療中の人は、血糖の動きも、医療者といっしょに確かめてほしい。
身体にも蓄えの棚はあるけれど、米倉庫とは別物である
米袋なら、積んだ数を数えれば済む。身体の蓄えは、そうはいかない。
食べた糖質は、エネルギーとして使われるほか、一部が肝臓と筋肉にグリコーゲンという形で蓄えられる。筋肉のぶんは、運動のエネルギー源のひとつとして使われる。使う量は、運動の強さと長さで変わる。
倉庫の在庫は国が数えてくれるけれど、身体の在庫に係員はいない。日々わかるのは、食べた量と動いた量、それに体重や血糖の動きのほうだ。——と、比喩が倉庫に寄りすぎた。米倉庫の地図で身体を読むのは、ここで止める。

新米の秋に残したい、地味な5つ
値札は来月も動く。動かないほうの話だけ、5つ。
- 炊く前に、最初の一回だけ量る。 米専用カップのすりきり一杯が1合で、約150グラム。目分量の日があってもいい。慣れた手のずれは、一度すりきりで確かめておくと、自分でわかる
- いつもの茶わんを、一度だけ秤に乗せる。 空の茶わんで目盛りをゼロに合わせてから、よそった一杯が150グラムなのか250グラムなのか、中身だけを知る。量り方の指示を受けている人は、その方法を続ける
- 多めに炊くなら、冷凍の一個を茶わん1杯ぶんに揃える。 包みの大きさが決まっていると、食べる量をつかみやすい
- 新米の一杯目は、炊きたてのうちに。 釜を開けた湯気の中で食べる一杯が、この秋のうまさの大半を占める。自分の1食の量を超えるぶんは、次の食事へ回す
- 1食の主食は、1種類にしてみる。 問題は種類の数より合計の量で、ごはんとパンとパスタが同じ皿で会うと、合計がつかみにくくなる。春に増えた麺の日は消さなくていい。ごはんの日と麺の日を、ただ分けておく
「量ってください」までは、すらすら言える。「先生の計量カップはどこですか」と聞かれると、僕の返事は遅くなる(汗)。5つを書いているあいだ、引き出しの位置を思い出そうとしていた。
茶わんの大きさは、診察室でも聞いている
当院は糖尿病の保険診療が土台で、その延長線上に、自由診療のGLP-1も置いている。採血の数字と体重を並べて眺めながら、茶わんの大きさも聞く。「いつもぐらい」が何グラムなのか、僕にも本人にもわからない日はある。わかった日は、次の診察で比べられることがひとつ増える。食事の量や動きの変化もわかると、血糖や体重の推移を、いっしょに振り返りやすい。
締めに
新米の湯気は、うまい。値札が下がった秋の、いちばんまっすぐな恩恵だと思っている。
田んぼのほうでは、1万4千円と書かれた数字が、まだ落ち着いていない。店頭の2,926円も、来月には別の数字になっているかもしれない。値札の話は、来週も来月も、僕らの手の届かないところで動いていく。
動かせるのは、釜に米を入れる前の一回と、しゃもじを持つ手くらいだ。釜を開けて底から返すと、湯気がいちどに立つ。その向こうで、茶わんに何杯ぶんを盛るかは、まだ僕らが決められる。春に身につけた手は、安くなったからといって、棚へ戻さなくていい。

炊飯器の内釜には、合数に合わせた水位の線が刻んであります。洗うと、よく見えます。使った線も使わなかった線も、同じ濃さで残っています。拭いて伏せると、底から最後の一滴がふきんに落ちて、それで今日の台所は閉まります。