第18回|身体は一晩かけて、53.5kgから自分の重さへ帰ってくる。
執筆: 小林 正敬(こばやし まさたか) — まさぼ内科・糖尿病クリニック飯田橋院 代表理事。糖尿病専門医・総合内科専門医。
前日の昼、身体はいったん53.5kgという他人の形に畳まれる。そこから一晩かけて、闘うための重さへ帰ってくる——計量とは、そういう競技である。

日曜の朝である。今朝もいつもどおり走ってきたのだが、走りながら、頭の半分はずっと今夜のことを考えていた。今夜、井上拓真と那須川天心が、もう一度おなじリングに上がる。去年の11月に一度目があって、それから10か月。ここ数日、SNSのタイムラインも、駅の広告も、昼めしの定食屋の隣の席も、じわじわこの話題の濃度が上がってきていた。配信で観られる試合だから、今夜は日本のリビングのかなりの数が、同じ画面を映すことになる。観るほうは気楽なものだ。ソファと画面のあいだに、守らなければならないリミットは、ひとつもない。
ワールドカップの決勝は、朝4時に目覚ましをかけて観る祭りだった(あの夜の顛末は夏の尿酸の回に書いた)。今夜の祭りは、目覚ましが要らない。夕方に開場して、夜が深まる前にメインのゴングが鳴る。晩ごはんを食べてから正座しても間に合う、ずいぶん健全な興行だ。健全なぶん、逃げ場がない。月曜の朝、日本中の職場と教室の話題がこの試合になることは、もう決まっているようなものだからだ。
井上拓真vs那須川天心2——去年の11月から、今夜までの道のり
まず、ここまでの道順を短くおさらいしておく。
一度目は2025年11月。空位だったWBC世界バンタム級王座をかけた決定戦で、井上拓真が3-0の判定で勝ち、ベルトを腰に巻いた。負けた那須川天心は、今年4月にメキシコの元世界王者エストラーダを9回終了TKOで下して指名挑戦権を取り、井上拓真は5月に井岡一翔を退けて初防衛。そしてWBCの指令で、この再戦が組まれた。会場は東京・TOYOTA ARENA TOKYO、今日9月27日である。
チケットは発売のたびにSNSがざわつき、配信元のAmazonは過去の14試合をまとめて無料開放するという助走まで用意して、この日を待っていた。片方はキックボクシングで一時代を作ってから海を渡るようにボクシングへ移ってきた男で、片方は怪物と呼ばれる兄の隣で、静かに世界王者になった男である。因縁、雪辱、証明。物語の材料が多すぎて、スポーツ紙の見出しは毎日ちがう角度から同じ試合を書いている。
——と、ここまで書いて、気がつくと次の段落で勝敗の予想を始めようとしていた。危ない。やめておく。予想なら専門家が山ほど出しているし、だいたい僕の観戦眼は、W杯でも大相撲でも当たった記憶のほうが少ない(涙)。それに、白状してしまうと、この試合で僕がいちばん観たかったものは、今夜のリングの上にはもうない。
昨日の昼に、終わっている。計量である。
ボクサーはなぜ減量するのか——53.5kgという関所

バンタム級のリミットは53.5kg。正確には118ポンド、換算して53.52kgという線が引かれていて、タイトルマッチの前日、両者はこの線の内側に身体を運んでこなければならない。昨日行われた前日計量が、それだった。計量はいまや興行の一部でもあって、会場にはファンが集まり、ニュースは読み上げられた数字をそのまま見出しに打つ。自分の体重が全国ニュースになる職業は、力士とボクサーくらいのものだろう。
世界戦という大仰な言葉は、前日の昼、53.5という小数点つきの数字に一度だけ圧縮される。何年ぶんの練習も、陣営の駆け引きも、興行の金額も、その瞬間だけは体重計の表示窓ひとつに集約されて、パスすれば、あとは殴り合う資格だけが残る。
そもそもなぜ階級で体重を区切るのか。答えは単純で、重いほうが強いからだ。同じ技術なら、質量の大きい拳のほうが破壊力で勝る。だから体重で土俵を区切って、条件を揃える。裏を返すと、リミットぎりぎりまで身体を大きくしておいて、計量の瞬間だけ線の内側に入るのが、この競技の合理になる。プロのボクサーがふだんリミットよりだいぶ重い身体で暮らし、試合が決まってから何週間もかけて絞っていくのは、怠慢でも意地でもなく、ルールが要求する技術なのだ。
つまり計量台の53.5kgは、その選手の「本当の体重」ではない。今夜のためにいったん通過する、関所の数字である。そして関所というものは、抜けたあとの旅のほうが本番、というのが今日の本題になる。
一晩で身体を戻す——リハイドレーションという科学
計量が終わった瞬間から、もうひとつの勝負が始まる。戻す勝負である。
減量の最終盤で身体から出ていくものの正体は、脂肪ではない。主に水と塩、それから筋肉と肝臓に蓄えられた糖の燃料——グリコーゲンだ。成人男性の身体はおよそ6割が水分でできているから、最後の数百グラムを削る作業は、脂肪をどうこうする話ではなく、身体の水位そのものを一時的に下げる話になる。乾かした身体は、軽い。軽いが、乾いたままでは闘えない。
だから前日計量からゴングまでの30時間ほどは、抜いたものを順序よく返していく時間になる。水と電解質を戻し、燃料を積み直し、消化に負担をかけない形で食事を重ねて、体重も体調もリングに間に合わせる。何を、どの順番で、どれくらいの速さで戻すか。現代のトップ戦線では、そこまで含めてトレーナーや栄養の専門家が設計する。減量は根性の物語として語られがちだけれど、少なくとも第一線のそれは、落とす技術と戻す技術がワンセットになった、チームの科学である。かつては試合当日の朝に計量していた時代もあったのが、いまは前日に量るのが標準になっているのも、この「戻す時間」を確保して選手を守るためだ。
水を抜き、塩を抜き、最後は食事の水気まで抜いていく。そうやって作った53.5kgの身体が、一晩かけて、闘うための重さへ帰ってくる。リミットまでの最後の数百グラムは、たぶんグラムという単位ではなく、渇きの深さで数えられている。
断っておくと、井上拓真と那須川天心それぞれが実際にどう仕上げているのかを、僕は知らない。両陣営の中身は門外不出だろうし、外野が推測で書いていい領域でもない。ここに書いたのは、現代のプロ格闘技でおおむね標準になっている考え方、いわば教科書の話である。——と、他人の商売をここまで講釈しておいて、僕自身はボクシングの減量を間近で見たことすらない。学会の朝にホテルの体重計へ恐るおそる乗るくらいの人間が書いている、という割引きは入れて読んでほしい(汗)。
それでも、この一晩の設計図には、内科医として素直に見とれる。身体の水と塩と燃料を、期限つきで、安全の枠内で動かし切る。外来の言葉に翻訳すれば、水分出納と電解質管理と栄養補給を30時間で一周させる集中講義で、診察室で僕らが何か月もかけてやろうとしていることの、極端に濃縮された縮図がそこにあるからだ。
診察室の「とにかく体重を減らしたい」
さて、月曜になれば、僕はいつもの診察室にいる。そしてこの仕事をしていると、「とにかく体重を減らしたいんです」という相談を、毎週のように受ける。
方法を聞くと、なかなか勇ましい。夕食を抜いています。サウナで汗を絞っています。今週は水分も控えめにしています——最後のやつは、聞くたびに椅子から少し腰が浮く。汗と我慢で目盛りを下げる発想は、要するに自己流の計量前日だ。ただ、プロの水抜きと決定的に違う点がふたつある。プロには明日の試合という締切があり、そして戻す技術を持ったチームが隣にいる。自己流には、どちらもない。締切のない水抜きは、ただ乾いていくだけだし、汗で作った数字は、麦茶一杯で元に戻る。落ちたのは脂肪ではなく水位だからだ。
期日を切って来られる方も、秋はとくに多い。10月の同窓会までに、11月の健診までに、と。期日のある減量はボクサーと同じ構図に見えるけれど、ひとつだけ抜き差しならない違いがある。同窓会の翌週にも、人生の興行は延々と続くことだ(笑)。一夜のために仕上げる技術と、続く日々のために整える技術は、名前が同じ「減量」でも中身が別物で、僕の診察室が扱っているのは、もっぱら後者のほうになる。
僕らの減量に必要なのは、妙手ではなく平凡のほうだ。毎日だいたい同じ時刻に寝て、食べて、歩く。リングの上には一晩で決める鮮やかな手もあるのだろうけれど、考えてみてほしい。僕らのカレンダーに、今夜の世界戦はない。締切のない人生で指すべき手は、一晩の妙手ではなく、続けても身体が壊れない平凡な一手のほうである。ダイエットと糖尿病の食事管理がそもそも別の競技だという話はこの連載の第1回に書いたので、そちらに譲る。
もうひとつ、最近の診察室の風景も正直に書いておく。「とにかく減らしたい」の相談の何割かは、最初からGLP-1という薬の名前を持って入ってくる。うちは糖尿病の保険診療が土台のクリニックで、その延長に自費のGLP-1の枠も置いているから、この相談は保険と自費の両方の窓口から届く。食欲の側から手伝ってくれる薬が現実になったのは事実で、合う人にはちゃんと合う。ただ、処方箋を書く手を止めて毎回考えるのは、拳闘とまったく同じ構図のことだ。減らす技術はもう存在する。問われているのは、減らしたあとの身体で何をするかの設計のほうで、そこは薬の仕事ではない。——診察室の話は、ここまでにします。時計の針は、まだ日曜の午前。ゴングまで半日もあるのだから、そのあいだに、体重計との付き合い方の話を済ませてしまいたい。
体重計の数字は、目的地ではなく通過点
ボクサーにとって、53.5kgは目的地ではない。今夜のリングという目的地へ向かう途中の、通過点である。数字はあくまで手段で、その先に「何のために」が明確に立っている。ここが、プロの減量からわれわれが唯一そのまま輸入していい部分だと思う。技術は輸入できない。輸入すべきは、数字を通過点として扱う目線のほうだ。
外来で「あと3kg減らしたい」と言う人に「減ったら、何をしますか」と聞くと、けっこうな割合で、少し黙る。数字が目的地になってしまうと、着いた瞬間にやることがなくなって、だから維持ができない。逆に、階段で膝が笑わないようになりたい、子どもの運動会で走りたい、来年の健診で薬を減らす相談がしたい——リングの側から逆算できる人の減量は、ペースが平凡でも、崩れにくい。
それと、ボクサーの偉いところをもうひとつ挙げるなら、計量が終わった瞬間に、体重計への興味をきれいに失うところだ。用の済んだ道具に、彼らは執着しない。僕らはどうも逆で、用もないのに毎日乗っては、朝の機嫌を目盛りに握らせていたりする。
体重計の上では、自分で自分をほめられる人が強い。あの有名な一言が頂点ではなく3位のゴールから生まれたことを、僕はよく思い出す。体重計の上でも同じで、目標の手前の数字を自分でほめられる人が、結局いちばん遠くまで歩いていく。満点の日だけ祝う採点方式は、途中で採点者のほうが逃げ出すのだ。

今夜からできる、体重計の作法5つ
ところで、規模こそ違え、僕らの身体も毎晩ちいさな減量と回復を繰り返している。眠っているあいだ、呼吸と皮膚から水分が静かに抜けていくので、朝の身体は夜より軽い。朝の体重が軽いのは、痩せたのではなく、乾いただけ。夕方に増えているのは、太ったのではなく、潤っただけ。この振れ幅を知らずに目盛りを毎日読むと、水の満ち引きに感情だけが振り回されることになる。
そのうえで、ここから先はいつもの地味な持ち場に戻る。観戦の前に、5つだけ置いておきたい。
- 乗るなら毎朝1回、同じ条件で。 起床して、トイレのあと、朝食の前。プロの計量が時刻から着衣まで条件を揃えるのは、条件を揃えない数字は読めないからだ
- 一晩の増減は、まず水の出入りと考える。 夕食の塩分や水分で、目盛りは平気で1kg前後動く。脂肪は一晩でそんな速さでは増えも減りもしない
- 健診の前日だけの駆け込み節制は、しない。 前夜の水抜きで動くのは体重の目盛りくらいで、血液の側の数字はほとんど動かない。しかもこちらの計量には、パスしたあとの試合も賞金もない
- サウナスーツ的な発想は、輸入しない。 汗の減量は、戻す設計と監視があって初めて成立する競技用の技術。片方だけ真似ると、残るのは渇きだけになる
- 減らす前に、「減らして何をするか」をひとつ決める。 目的のない減量は、リミットの発表されない計量に似て、どこまでやっても終わりが来ない
5つとも、体重計に乗る話というより、体重計と距離を取る話なのだ。毎日の目盛りに一喜一憂するには、僕らの身体は水が多すぎる。
ゴングの前に
今夜、リングの照明が落ちて入場曲が鳴る頃には、昨日の計量台の53.5kgは、もうこの世のどこにもない。両者とも、返すべきものを一晩かけて身体に返し終えて、闘うための重さでロープをくぐる。あの数字は消えるために量られる数字で、僕はそこに、この競技のいちばん静かな凄みがあると思っている。何年もかけて作り上げた身体を、たった一日のために、いったん53.5kgという他人の形に畳んでみせる。そして畳んだものを、一晩で自分の形に開き直す。その手際まで含めて、リングの上の12ラウンドは成立しているのだと思う。
勝敗の行方は、書かない。観てから、たっぷり考える。今夜の僕の手元は、炭酸水の予定でいる。ただ、ジャッジの採点が読み上げられる頃、テレビの前の僕らの誰も、両者が昨日どうやって53.5kgの関所を抜け、どうやって身体を取り戻したかを思い出さない。派手な打ち合いの陰で、いちばん精密な仕事は試合の前日までに終わっていて、しかも誰にも気づかれない。思い出されないところにこそ職人の仕事は宿るものだと、これは医療も似たようなものなので、勝手に親近感を抱いている。
いい夜になりますように。それで、もし明日の朝、ふと体重計に乗りたくなったら——その数字は関所ではなく、ただの通過点として読んであげてほしい。あなたの試合は、今夜ではないのだから。

今朝、走り終えて体重計に乗ったら、昨夜より800gほど軽い数字が出ました。本文を書いた直後なので断言できますが、これはほぼ全部、汗で出ていった水です。夕方には黙って戻ってきます。せっかくなので今夜はゴングの直前にもう一度乗って、何グラム帰ってきたかを確かめてみるつもりです。たぶん誰の役にも立たない、今夜この国でいちばん小さな計量です。立会人なし、リミットなし、興行収入なし。それでも量ってみたいのだから、計量というのは案外、観るより乗るほうが面白いのかもしれません。結果はここには書きません。書くほどの数字が出たら、外来の雑談で。